雑穀の里・岩手県岩泉町の暮らし⑪ 水バッタとカラウス〜雑穀の伝統的精白法
岩手県岩泉町は、雑穀が当たり前の暮らしが日本で一番長く、昭和40年代後半まで続いていました。そんな岩泉町で生まれ育ったのがつぶつぶ料理コーチの佐々木眞知子さん。
古くから雑穀を栽培し食べてきた岩手県岩泉町の暮らし、雑穀文化の源流について連載でレポートしています。
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雑穀食に欠かせない存在だった水バッタ
バッタとは、水の力を利用した手作りの精穀・製粉設備のこと。眞知子さんが子供の頃はどの家にもあったそうです。ヒエの精白に使うことが一番多く、コメや高キビなどの粉を作るのにも使っていました。
太くて長い角材の先に杵がついていて、「バタン、バタン」と石臼を搗きます。杵と反対側の先端は、木をくりぬいた大きなひしゃくのような形をしていて、そこに水が溜まるようになっています。
川の水や沢水を引いてきて、水溜の部分が水で一杯になると、その重みで杵が持ち上がります。一方、下に落ちた水溜からは水が流れ出て空になって軽くなり、元の位置に跳ね上がるので、その反動で杵が臼を搗く、という、いわばししおどしと同じ原理です。
杵の上には重りの石がくくりつけてあって、何をどれ くらい搗くかで、重りを調節したのだそうです。バッタは油分が多く水に強い松の木で作り、杵には堅くて長持ちするオノオレカンバを使いました。
水バッタは、大抵ちょっとした小屋の中にあって、人がついていなくても勝手に精白や製粉をしてくれるとても便利なものでした。
ヒエの場合、夕方、玄ヒエ約3升をバッタ袋と呼ばれる麻袋に入れて持っていき、臼の中に入れます。そのまま一晩くらいかけて搗き、翌朝取りに行きます。 それから大きな手箕(み)で殻をとばして、食べられる状態にします。
3升の玄ヒエは約1升の精ヒエになり、台所の隅にあるキシネ箱という木の箱に入れて保存していました。これで数日間は食べられるので、残りの量を確認しながら、精白作業をしていたようです。
ちなみに、当時のヒエは、ほとんどが一度蒸して乾燥させてから搗いたオムスビエと呼ばれるものでした。蒸さずにそのまま搗いた白干ヒエは、神様への供物用、また、美味しくて食べすぎてしまうので、蒸した方が量も増え、また搗きやすくなる、という利点があったそうです。
「でも、最近高齢の方とお話しする機会があって、あのオムスビエの味が何とも美味しくて懐かしい味で、忘れられないと言っていました。」と眞知子さん。眞知子さんにも、バッタから出る砕けたヒエをおかゆにして漬物と一緒に食べたのが美味しかった、という記憶があるそうです。
水が凍る時期には人力のカラウス
ほぼ毎日のように活躍していたという水バッタですが、水が凍ってしまうような冬場には使えない時もありました。そんなときは、人が足で踏んで搗くカラウスを使いました。
カラウスは、家のそばの小屋の中などにあり、バッタと同じようにシーソーのような形をしています。ただし、人力でやるので、かなり大変だったそうです。
「祖母が足でカラウスの端の部分を踏み、子供の私は、その真ん中あたりに乗って上から釣り下がっている紐につかまりながら、祖母が踏むのに合わせて左右交互に体重をかけて、トントンやっていました。でも、あまりにも長い時間かけてやるので飽きてしまい、『まだ?まだ?』と何度も聞いたのを覚えています(笑)。」と眞知子さん。これは、中踏みと言って、一人で踏むより作業がかなり楽になるので、子供がよくその役割のために乗せられたのだそうです。
今ではほとんど見られなくなってしまった水バッタやカラウスですが、機械と違って熱がかからないので、バッタで精白した雑穀や製粉した粉の味や舌触りは格別です。バッタではありませんが岩泉では復元した雑穀用の水車があるので、機会があったら是非見に来てくださいね!
○ 話し手:つぶつぶ料理コーチ 佐々木眞知子さん
日本で一番長く雑穀食が続いていた岩手県岩泉町生まれ。雑穀が 普通にある暮らしとその劇的変化を体験して育つ。町の栄養士を長 年務めながらも、近代栄養学に疑問を感じていたときに、つぶつぶ と出あう。早期退職後、夫と共に雑穀栽培にも取り組んでいる。
【岩手・岩泉】雑穀栽培体験×つぶつぶ料理レッスン コスモス
○ 聞き手・文:つぶつぶマザー伊藤信子さん
東京生まれ。大学卒業後、岩手県北の集落で雑穀のある伝統的な農 業や食文化を丸ごと体験、自然と文化と人の懐の深さに魅了され、岩 手に移住。岩泉町にも約8年間暮らす。現在は、雫石町にある自宅兼 アトリエでつぶつぶのセミナーや料理教室を開催している。4児の母。
岩手・仙台 つぶつぶ料理教室 つばさ