雑穀の里・岩手県岩泉町の暮らし⑥ 家族の命を守る穀物は常に3年分備蓄していた!
岩手県岩泉町は、雑穀が当たり前の暮らしが日本で一番長く、昭和40年代後半まで続いていました。そんな岩泉町で生まれ育ったのがつぶつぶ料理コーチの佐々木眞知子さん。
古くから雑穀を栽培し食べてきた岩手県岩泉町の暮らし、雑穀文化の源流について連載でレポートしています。
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一日に炊くごはんの量が決まっていた
眞知子さんが子どもの頃のごはんは、白米が半分、残りはヒエと大麦が半々の三穀飯(さんごくめし)でした。
「米を半分以上にすると、おいしくて食べすぎるので。各家庭で割合は様々で、ヒエと大麦が米より多かったり、その逆もあったようです。」と眞知子さん。物心ついた頃にはすでに田んぼがあったので、三穀飯の割合は、徐々に白米の比率が高くなっていったそうです。
ごはんを炊くのは朝の一日一回と決まっていました。12人家族(うち子どもが5人)で2升くらい炊き、昼と夜はその残りを食べます。
夜にごはんが足りなくなったら、小麦粉で作ったうどんやひっつみ(小麦粉をこねて平たく手でちぎって汁にいれた郷土料理)、うきうきだんご(高キビ粉の団子を入れたお汁粉)などを食べて間に合わせていました。
1年間に食べる量の穀物を確保していたので、夜もごはんを炊くと足りなくなってしまうからです。
また、「ケガズ(飢饉)がきて収穫でなくても、3年分は間に合うように保存しておき、古いものから食べる、と親から聞きました」と眞知子さん。
かつて岩手では冷害による凶作が絶えませんでした。その経験から、家族の命を守る食糧の備蓄は欠かさなかったのです。中でもヒエは冷害にも強く、長く貯蔵できる(殻を取らなければ10年もつ) 救荒作物でした。
ヒエを保存するセイロ
精白する前の玄ヒエは、セイロという幅約180m、奥行約100m、高さ約40cmの大きな木枠を重ねたものに入れて保存していました。
収穫し調整した後、カマス(ワラで作った袋)に入れて運び、セイロを重ねた上から玄ヒエをカマスからあけて入れ、フタをします。セイロ一段には三石(一石は10斗=約180L)入り、三段重ねで九石。五段重ねのものもあり、セイロの数を見て、ヒエがどれくらい残っているかの目安にしていたそうです。
一番下の段のセイロには取り出し口がついていて(写真参照)、当面食べる分ずつ玄ヒエを出して精白します。ヒエは精白すると約3分の1になり、キシネ箱という小さめの木箱に入れ台所で保管していました。
セイロは各家庭で大工さんに頼んで作ってもらったもの。釘を使わずに、ナラの木等を組んでできています。 板の厚さは一寸二分(約3.6cm)と決まっていて、 地元のお年寄りによると「一寸だとネズミに食べられる、一寸二分だと諦めるから」なのだそうです。面白いですね!
現在では何でも「足りなくなったら買えばいい」という便利さを当たり前のように享受している私たち。東日本大震災の時は、それが砂上の楼閣であることを痛感しました。
3年分を備蓄…とまではいかなくても、自分たちの命を支える食べものに責任を持つ暮らしをしたいと改めて思いました。
○ 話し手:つぶつぶ料理コーチ 佐々木眞知子さん
日本で一番長く雑穀食が続いていた岩手県岩泉町生まれ。雑穀が 普通にある暮らしとその劇的変化を体験して育つ。町の栄養士を長 年務めながらも、近代栄養学に疑問を感じていたときに、つぶつぶ と出あう。早期退職後、夫と共に雑穀栽培にも取り組んでいる。
【岩手・岩泉】雑穀栽培体験×つぶつぶ料理レッスン コスモス
○ 聞き手・文:つぶつぶマザー伊藤信子さん
東京生まれ。大学卒業後、岩手県北の集落で雑穀のある伝統的な農 業や食文化を丸ごと体験、自然と文化と人の懐の深さに魅了され、岩 手に移住。岩泉町にも約8年間暮らす。現在は、雫石町にある自宅兼 アトリエでつぶつぶのセミナーや料理教室を開催している。4児の母。
岩手・仙台 つぶつぶ料理教室 つばさ