【ベジタリアンを知る vol.19】宮沢賢治とビヂテリアン大祭
*この投稿は以前発刊していた会報誌『月刊つぶつぶ』より連載シリーズ「ベジタリアンを知る」から一部編集して掲載しています。連載一覧はこちら
執筆:NPO法人日本ベジタリアン協会代表 歯学博士 垣本 充
日本を代表するベジタリアン 宮沢賢治
宮沢賢治は日本を代表するベジタリアンとして知られています。賢治は敬虔な仏教徒で、彼のベジタリアニズムは仏教(法華経)信仰に大きな影響を受けたと言われます。宮沢家は古くから浄土真宗の門徒で、父は花巻仏教会をつくり、著名な仏教学者を招いて講習会を開くなど信心深く、賢治は幼少からそのような環境で育ちました。
賢治がいつごろからベジタリアンになったのかは明らかではありませんが、賢治22歳(大正7年・1918年)の時点では、宿泊した宿で精進料理を出してもらっていることから、すでに菜食を始めていたようです。
ベジタリアンになったきっかけは、盛岡高等農林学校時代に隣の獣医科で解体実験される動物のもがき苦しむ悲鳴を聞き、肉食に嫌悪感を持ったのが始まりとされています。当時、友人宛に「私は春から生物のからだを食うのをやめました」という手紙を送っています。
宮沢賢治は動物を食べることに罪の意識を感じて、動物愛護の視点に立った『注文の多い料理店』や『氷河鼠の毛皮』などの作品を残しています。さらに、ベジタリアン、ベジタリアニズムと直接対峙する『二十六夜』や『ビヂテリアン大祭』を著しています。
ここでは、『ビヂテリアン大祭』を取り上げたいと思います。
文頭、主人公がカナダ・ニュウファンドランド島の山村で開かれたビヂテリアン大祭に列席してきたと語り、ベジタリアンを次のように説明します。
「全体、私たちビヂテリアンといふのは、ご存知の方も多いでせうが、実は動物質のものを食べないといふ考のものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが主義者といふよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。」(太字は筑摩書房・『宮沢賢治全集6・ビヂテリアン大祭』より原文どおり)
この大祭では、主人公の日本人の他に、トルコ、中国、米国、カナダなどから500人の出席者があり、植物性食品と動物性食品の栄養や食味の比較、人口や食料問題、解剖学見地、宗教的背景など、現代でも論争されている課題が提示されています。
三つのベジタリアン
ベジタリアンは同情派と予防派の大きく二つに分類されるが、その実行方法から言えば、三つになると記しています。
第一の同情派(動物愛護派)は、動物性のものは全く食べない、すなわち肉や魚はもちろん、牛乳やチーズなどの乳製品、鶏卵ミルク入った菓子なども一切食べてはいけないという人たち。第二の予防派(健康推進派)は、牛乳やチーズ、バター、卵など、ものの命をとるというわけではないから、食べるのにさしつかえないと考える派。第三派は普段から、なるべく植物をとり動物を殺さないようにしなければならないが、少しの動物の摂取を許容するタイプに分類しました。
ビヂテリアン大祭はフィクションですが、史実に照らせば、国際ベジタリアン連合(IVU)が主催する世界ベジタリアン会議を想像させます。この仮定の大祭は1920年代に開催されたとしていますが、IVU主催の第1回世界ベジタリアン会議は1908年にドイツ・ドレスデンで開催され、実際1920年代にはスウェーデンや英国などで開かれています。その後も、ドイツ、米国、カナダなどの西洋圏だけでなく、ブラジルやインドなどでも開催され、今も、ベジタリアン・サミットとして継続されています。
宮沢賢治は、仏教思想による「生命の尊厳」というベジタリアニズムの本質を捉え、現在のようにSNSの発達していない約100年前に、ベジタリアンの国際会議を想定し、菜食に関わる健康や食料問題などを取り上げていることや、ベジタリアンをビーガン(完全菜食)、ラクト・オボ・ベジタリアン(乳卵菜食)、セミ・ベジタリアンに分類していたことは驚きを禁じえません。
宮沢賢治は、ベジタリアニズムの深淵な理念をユーモアのある物語として表現した稀代の偉人であると思います。
NPO法人 日本ベジタリアン協会
日本ベジタリアン協会は、1993年4月設立、2001年2月に特定非営利活動法人(NPO法人)の認証を受けた非営利団体です。「人と地球の健康を考える」をテーマに菜食とそれに関連した健康、栄養、倫理、生命の尊厳、アニマルライツ、地球環境保全、発展途上国の飢餓などの問題に関する啓発や奉仕を目的とし、菜食に関心のある人々に必要な知識や実践方法を広め、共有していくためのネットワークづくりを行なっています。
HP:http://www.jpvs.org/