暴れていたのは娘ではなく私だった! / 松村みどり(3/3)

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娘の悩みや不安が心や体に現れだしたのは、
19歳になるころでした。

 

それまでの娘の生き方はまさしく競馬馬のよう、
視野を狭くして全力疾走、
そんな感じでした。
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大学に入学し、時間もでき、自分でいろいろ考え始めた頃と、
体の不調を訴え出した時とが重なります。

 

あるカウンセラーの話では
「今までいい子で反抗期がなかった分
ここにきて反抗期と思春期が一緒にきてしまい、
よけい大変になっている。」
ということでした。

 

大学を2年で勝手に終了して、
帰ってきて自宅で暮らすようになりました。

 

そのまま大学に行っていたら、もう2年あったわけだし、
その2年間でいろいろ考えてみればいいと
受け入れていたつもりですが、
自然にしているつもりでも、
体調やいろいろに波があるので、どうしても、知らず知らず
腫れものに触るようになっていました。

 

あるとき、とうとう私が爆発してしまい、
取っ組み合いになってから、どんどん悪化していきました。

 

パニックを起こして
眠れない日々が続いたり、
ほんとうに泥沼でした。

 

出口を求めて
いろいろな方に出会いました。

 

鍼灸、足裏マサージ、頭がい仙骨療法、整体、
どちらかというと東洋医学に近い考えの方たちでした。
カウンセリングももちろん行きました。

 

家で過ごすようになって2年目
どうなるのか目途もつかないまま、
体調のいい時は畑の草刈をしたり、
食事の支度をしたりして過ごしていましたが
祖母が倒れ、娘はさらに重傷のパニック状態に!
そのエネルギーは凄まじく
心から怖れを感じるほどでした。

 

義母の看病と、農作業と、不安定な娘との
緊張した状態が重なって
修羅場というのがふさわしいような状態でした。

 

その娘が、未来食セミナーを受けて
変わったのです。

 

直後に研修生募集の呼びかけを見て
「これしか無い!」と
思い定めました。

 

 

私自身も、それほどの反抗期なく大人になりました。
反抗するとなんだか親がかわいそうと思えて、
自分の言いたい事が言えない、
なんとなく親の耳ざわりのいい言葉に変えて
話す私がいました。

 

親や周囲に反対されて結婚したことや、
親のやらなくてはいけない事を、周りの人に迷惑になるからと思って
母の代わりにやっていた悲しい日々、
こんな経験は子供にはさせない、と決心して
私の子育てがはじまりました。

 

子供は親の作品、
外から見て優秀な子供にしあげるために、
親が教えなければ、親がしつけなければ
と思っていたのです。

 

「親は子供をなにがあっても守る。」

 

私自身が、甘えられなかった、守ってもらえなかった反動でした。
天女の学びを経た今だからわかりますが、
社会に出るという事は、
私が子供に触れさせないようにしてきた事の連続なわけで、
そういう事を通して大人になっていくのが人生なのに
当時の私にはまったく分かっていなかったのです。

 

だから、娘が自分の考えでいろいろ動こうとしたとき
理屈は本などを読めば入ってきて、
自分もできそうなのだが、
実際の経験が少なく思うように動けず、
行き詰まってしまったのです。

 

防波堤になって子供を守る、
そのことが娘を動けなくしたのです。

 

その苦しみの矛先が母親の私に向きました。

 

「お母さんが悪い、育て方が悪い」
全力で津波のごとく立ち向かってきました。

 

その勢いで防波堤はくずれ、
そうはしたものの娘自身なにをどうしたらいいかわからず、
津波に呑まれて、私という防波堤もガレキとなって一緒に漂いました。

 

 

今ではつぶつぶと天女の学びを経て、
夢のようなパートナーと出会って結婚し、
健康な2児の母とつぶつぶシェフの仕事を両立して
あの頃の影がみじんも残っていない美しい娘と
笑い話になっています。

 

振り返ってみると、
助けを求めて二人でほんとうにいろんなところへ行き、
いろんな経験をしました。

 

助けを求めていった先の一つが
未来食セミナーだったのです。
やっと、出口が見つかったのです。

 

 

今思えば、娘とさまよった経験は
私自身が望んでいたことでした。

 

娘のためと言えば何でも自由にすることができたのです。
娘を暴れさせていたのは私でした。

 

私が自分を自由にしたかったのです。

 

裕福な家庭に育ち、
小学校の頃の私は元気印でどんどん前に出て行くような、
負けず嫌いが服を着ているような子供でした。
勉強もそこそこ出来たし、運動も出来ました。

 

家には家電はもとより
ステレオ、テープレコーダ(オープンデッキ)
新し物好きの父がいろいろ買ってきました。
外から見たらきっと羨ましがられる環境、
生活だったのではないかと思います。

 

それが、父の体調が思わしくなくなり
オイルショックがやってきました。
経済の成長が止まり、父の仕事がうまくいかず、
家庭の中も暗い雰囲気が漂っていました。

 

中学の頃に家庭の状況、社会の情勢が、
ガラッと変わってしまったのです。

 

その結果、私は.それと知らずに
本来の私を閉じ込めてしまいました。

 

未来にどう夢を持ち生きていけばいいか
分からなくなってしまい途方に暮れました。
その頃から長く暗いトンネルに入ってしまった私が続いていました。

 

トンネルの出口を探しながらも見つからないまま
家庭科中学教員と栄養士の免許を取りました。
そして、神奈川県の教員採用試験にも合格したのに、
辞退してしまいました。

 

自分に自信がなかったのです。
こんな私では教員にはなれない。
自分を認める事が出来ませんでした。
こんなわたしでは周りが認めてくれないだろう
と思い込んでいました。

 

それでも学校栄養士として働き出しました。
数字を並べるだけの栄養計算。
本当に児童生徒に栄養が足りているか不安の日々でした。

 

ここでも自信がない、続けられない。
当時、仕事を続けられない自分、周りの期待に添えない自分に
不甲斐なさを感じていました。
どうしたら期待に添えるのか、愛される存在になれるのか
と思い悩んでいました。

 

22、3歳の頃でした。
小さい頃から、それ以上の自分を思い浮かべる事が
何故か出来ませんでした。
大人になった自分が想像できなかったのです。
結婚願望はありました。
この頃主人と出会い結婚することになりました。

 

はじめて自分の意志を通した出来事でした。
だから、自分でそのことに対して責任を持とうと思ったのです。

 

社会に出てから仕事というものにたいして不完全燃焼感があって、
農家に行けばそれなりの仕事もあるし、仕事ができると思いました。

 

しかし現実はそんな甘いものではなく、
もっともっと不完全燃焼になっていきました。

 

親、親せきみんなにも反対されての結婚だったので、
「結婚してから失敗は出来ない」「子育ても失敗出来ない」
と思い詰めていました。

 

ここから、またまた勝手に理想像を作りあげ
いい嫁、いい母を演じて
自分を窮屈にしていきました。

 

子育ては布おむつでなくてはいけない、
お菓子は食べさせてはいけない、
ミルクはやってはいけない。

 

子どもは8時には寝なくてはいけない、
そして、私自身が育てられた時に悲しかった事嫌だった事
辛かった事は私の子どもにはしない。私で止める。

 

そういうスタンスで始まった子育ては初めから
ボタンの掛け違いをしていました。

 

義父母の報われなかった過去、義祖父母との関係をよく聞かされ、
こんなに苦労をした義父母を困らせてはいけないと、
優等生の嫁を演じていました。

 

でも演じ切れるはずもなく、
ちょっとしたきかっけで心の闇が噴き出し、
落ちつくと罪悪感にさいなまれていました。

 

私自身のやりたい事はなかなか言いだせなかったけど、
子どものことは何でも言えました。
私が子どもに関する事をやるにはだいたいなんでも
許される、そんな状況でした。
子どもの言いなりになる、子どもの召使いになる
というより、私の場合は、
子どもを通して私自身がやりたい事や、
やり残したことをしていたのです。

 

娘のためにと思っていた未来食つぶつぶの学びで、
まさか、自分自身の答えが見つかるなんて!
思っても見なかった結果に、私自身最初は戸惑いました。

 

でも、最後のトンネルをくぐり抜けようとしている
娘を理解するためにと決心して参加した
つぶつぶマザーセミナーで、私は封印していた
ほんとうの自分を発見することができたのです。

 

夫婦共通の夢、3人の娘たちと家族共通の夢ができ
清々しい気持ちで、今を楽しんでいる新しい私がここにいます。

 

私のように、輝いているはずなのに
自分を封じ込めている
多くの女性たちにつぶつぶと天女の学びを
伝えることが、私のもう一つの仕事になりました。

 

 

つぶつぶマザー
松村みどり

 

おわり(3/3)